書評

仏教タイムス 

2012年1月1日号より

『はた織りカビールの詩魂』
評者・島薗進(東京大学大学院教授)

 イスラームの影響が強まる15世紀の北インドで、ユニークな霊性を体現かつ表現した宗教者がいた。その名はカビールで、はた織りを職とし文字知識も豊かでない民衆宗教指導者だったが、宗教史上に大きな足跡を残した。ヒンドゥー教のシヴァ神信仰や密教にも通じ、ヴィシュヌやラームを信奉するバクティ信仰の系譜も受け、またイスラーム神秘主義のスーフィーの流れに位置づけることもできるような人物だ。

 ラーマーヤナ、ラーマーナンダを引き継ぐカビールは、ヒンドゥーとイスラームの融和を象徴する人物であり、スィク(シーク)教の創始者であるナーナクの先駆者ともされる。タゴールが注目し鈴木大拙も早くから紹介していたカビールだが、日本では本格的な論著は編まれていなかった。著者は40年前からこの詩人・宗教者の研究を志し、多面的にその思想を掘り下げてきたが、膨大な研究成果を踏まえ読みやすい一冊の書物にまとめられたのが本書だ。

 カビールの神秘体験、師弟関係の重さ、「空」、「中」、「信」、そして名号の意義、死と不死の思想が示されていくが、あたかも世界宗教史の知識を問われるかのような豊かな世界が展開する。著者は自らの禅体験を踏まえ、カビールの「無属性」「無相」の境地を禅に通じるものと見ている。カビールの詩句ではこうなる。「内外の世界が一つとなっていて、有心も無念もこの台座にすぎない。/顕れもせず、隠れもしない。来ることも行くこともない。/それを表すことばも知らない」。

 このように仏教で言えば「智慧」の極致を極めたかに見えるカビールだが、他方、また「愛」「情念」を尊ぶ、ラームへのバクティ(信愛)の徒でありアッラーにすべてを捧げるスーフィーの徒とも見うる。名号を憶念し神と一体化する実践は、没我のファナーの境地を求めるスーフィーのズィクルの行のようでもある。鈴木大拙は前者を智慧の側面を強調し信愛の側面に注目しなかったが、その後の大拙が関心を寄せた妙好人の世界に近いことも示唆されている。

 現代人にとって魅力的なことは、カビールがまた宗教・宗派の違いを超越することを自覚的に唱え、実践したことだ。「(いまや)カバァ(モスレム聖地)がカーシー(バーナーラス)となり/ラームも慈悲深きラヒーム(アッラーハ)であり、/ひき割り粉も上等のマイダ(細粉)となる」。

 多くの示唆を現代に投げかけるこの神秘家・詩人・宗教者が、本書によって生き生きと蘇り身近な存在になったのはまことにうれしいことだ。